TAKUDAI PROFILE~拓大人物図鑑~

「台湾近代化の父」と呼ばれるドクター。

岩手県に生まれた後藤は、医者としてキャリアをスタートさせる。24歳にして愛知病院の院長となると、1883年には内務省衛生局(厚生労働省の前身)に抜擢され、衛生行政を担当。その後、当時の医療先進国・ドイツへ留学。後藤の名を一躍有名にしたのが、日清戦争からの帰還兵に対する検疫事業である。2ヶ月で20万人以上の検疫を実施し、1500人ものコレラ患者を発見。国内への病原菌の持ち込みを未然に防ぐことに成功した。この活躍ぶりに目をつけた台湾総督・児玉源太郎とともに取り組んだのが、台湾経営だった。領有直後の台湾は、マラリヤやコレラなどの疫病の流行が深刻だった。しかし、手洗いやうがいなど公衆衛生の概念を浸透させるなどしてこれを解決した。衛生環境の改善に努めた後は、鉄道や道路をはじめとする全面的なインフラ整備に取り掛かる。新渡戸稲造とともに農業(製糖業)の発展も指揮した。こうして台湾発展に多大なる貢献をした後藤は「台湾近代化の父」と呼ばれている。その後は、南満州鉄道総裁としての鉄道整備や、東京市長(現・東京都知事)として関東大震災後、東京復興のマスタープランを練るなど、近代的な国家・都市の建設を力強くリードしていった。また、東京放送局(現・NHK)初代会長、ボーイスカウト日本連盟・初代会長を歴任するなど、多岐にわたる仕事をこなした。

台湾発展から、拓大発展へ。

後藤は、1919年に第3代学長に就任し、拓大発展の礎を築いた。台湾統治を進める台湾総督府で腕をふるっていた後藤が、台湾で働く人材を育成する台湾協会学校(現・拓殖大学)とつながりをもつことは必然だったといえる。専門学校であった拓大が大学に昇格したのも後藤の力によるものだ。台湾開発に成功した後藤であるが、そのノウハウやスピリットは、そのまま現在の拓大の国際交流のあり方にもつながっている。後藤が台湾総督府に着任する前、台湾統治はうまくいっていなかった。それは日本の一方的な制度や価値観を押し付ける形で、台湾と日本の間にある文化的な隔たりを受け入れようとしなかったことに原因があった。しかし、後藤は、現地の習慣、文化、制度を無視せず、日本との違いは違いとして認めながら、現地の人々を理解していくべきだと主張し、そこから台湾経営は急速に成功することとなった。多様性を尊重しながら現場に入って、同じ目線で協働していくこと。これこそが、拓大の国際交流の真髄である。後藤のその生き方は、この先も国際大学である拓大の精神として残り続ける。