TAKUDAI PROFILE~拓大人物図鑑~

拓殖大学創立の一端を担い、学生に対して「学問と事業との密着が必要である」と説いた実業家

新一万円札の顔であり、2021年NHK大河ドラマの主人公としても注目される渋沢栄一は、江戸時代の末期に埼玉県の農家に生まれた。22歳から江戸に出て儒学を学ぶ傍ら、尊皇攘夷思想に目覚め、志士活動にものめり込んでいく。24歳で一橋慶喜に仕え、その3年後、慶喜が将軍となったことから幕臣に登用。そこで渋沢に大きな影響を与えた出来事が、パリ万博の視察である。ヨーロッパの近代的な国づくりに、渋沢が強く衝撃を受けたことは想像に難くない。明治維新が起こり帰国したのち、フランスで学んだ株式会社制度など、海外で得た知見を取り入れ次々と改革を推進。明治新政府より招かれ、1869年から3年半にわたり民部省、大蔵省に勤めた渋沢は辞職後、日本最初の銀行となる第一国立銀行(現・みずほ銀行)の創業をも担うことに。その後およそ500もの企業設立に力を注いだことから、「日本資本主義の父」と称されるまでになったのだ。

企業家としての側面と同時に、日本の教育改革にも注力した渋沢。近代的な国づくりを目指し、商法講習所(現・一橋大学)をはじめ、多くの学校設立に関わっていった。そして1900年に誕生した拓殖大学の前身である台湾協会学校の創立委員の一人として、渋沢が名を連ねた。台湾での事業に従事するための人材養成が国家の急務であった当時、その教育の必要性や意義を渋沢も強く感じていたのだ。1903年、拓殖大学の学生に行った演説では、「学問と事業とを十分に密着することを心懸けることが甚だ必要」と語った渋沢。実学教育に関する意識がまだ薄い日本で、学びを社会に役立てることの大切さを説き、台湾はもちろんのこと、アジア全般で活躍できる人材の必要性を唱えた。実業において、強い国際競争力を持つことのできる日本へ。その高い志は、学生の奮起を促すとともに、グローバル大学への道を歩みだす輝かしい一歩目となったのだ。