TAKUDAI PROFILE~拓大人物図鑑~

お札の顔にもなった、日本を代表する国際人。

旧五千円札の肖像だった新渡戸稲造は、幕末、岩手県に武士の息子として生まれた。「太平洋の架け橋になりたい」という高い志を胸に抱きながら、37歳の時に出版した全編英語の著書「武士道」は、イタリア、ドイツ、ロシアなど世界約20ヶ国語に翻訳され、世界的ベストセラーに。日清戦争の勝利によって突如日本が世界から注目を集める中、「日本とは何か」「日本人とは何か」を、その精神、思想、文化から紐解いた画期的な書として欧米諸国で読まれた。アメリカ大統領・セオドア・ルーズベルトやトーマス・エジソン、ジョン・F・ケネディ大統領をはじめ愛読者も多く、現在に至るまで広く長く読み継がれている。「武士道」が評価され世界で有名になった新渡戸は、第一次世界大戦後の1920年に発足した国際連盟の初代事務次長の座に就任。そこでは「新渡戸裁定」とよばれるフィンランド・スウェーデン間の領土問題を円満に解決するなど、世界平和に大きく貢献した。一方で、教育者としての顔も持ち、京都帝国大学(現・京都大学)や東京帝国大学(現・東京大学)などの教授を歴任。1917年より東洋協会植民専門学校(現・拓殖大学)の第2代学監(教育責任者)を務め、日本の国際化教育を前進させた。このほかにも、日本初の農業博士の称号を受けるなど、そのマルチな才能は日本の近代化に大きく寄与した。

海外で働く拓大生に送った「個人として強かれ」。

植民事業で働く人材の養成を目的に掲げる拓殖大学と新渡戸が関わりをもつのは自然なことだった。その背景には、第3代学長後藤新平との出会いがある。農業の第一人者として、台湾総督府民政長官だった後藤に招かれた新渡戸は、日本の植民地であった台湾での砂糖産業の発展に尽力し、台湾の経済的基礎を確立。その経験をもとに、拓殖大学では植民政策学を教えた。また、アメリカ、ドイツでの留学を始め、豊富な海外経験と知見をもつ新渡戸が学生に教えたのは、国際人としてのあるべき姿勢だった。1918年の卒業式では、これから海外へ羽ばたく学生に向けた「個人として強かれ」というメッセージで自律した国際人になるべきことを説き、激励した。日本の国際化の進展に大きな足跡を残し、次世代の国際人養成に向けて力を尽くした新渡戸。国際社会をタフに生き抜き、世界中の人々のために心血を注ぎ続けた熱きニトベスピリットは、いまの拓大にも息づいている。