TAKUDAI PROFILE~拓大人物図鑑~

拓殖大学の寮歌を作詞した、多才な表現者。

1917年、東洋協会植民専門学校(現・拓殖大学)の支那語科に入学。卒業後は外務省書記生試験に合格し、中国に赴任した。総領事館書記生の職務を終えたのち、石原は川柳人・俳人として大きく才能を開花する。企業の社員会誌の編集発行を担い、自身の作品を掲載したこともあれば、月刊川柳誌の創刊にも精力的に携わったという。川柳の主なテーマは中国の世相や生活文化。他国の風俗習慣を理解することから、真の国際親善が始まると石原は考えていた。古来より親しまれた川柳が、中国と日本の架け橋となることを願っていたのだろう。

石原は在学中に「紅陵健児の歌」という寮歌を作詞したことでも知られる。各校とも寮歌が流行していた時代。寄宿舎を中心にこの歌は歌われ、学生の士気を大いに高めた。また、キャンパスの広場や建物の愛称に、三国志の舞台として登場する「五丈原(ごじょうげん)」や「臥龍窟(がりゅうくつ)」と名付けたのも石原のアイデアだ。学生時代から一貫してクリエイティブかつグローバルな才能を発揮し続けた石原。アジアとのつながりが深い国際大学としての礎を築いた、志高き卒業生の一人である。