TAKUDAI PROFILE~拓大人物図鑑~

世界に拓かれる日本と生きた首相。

1848年、黒船来航の5年前。長州藩(現・山口県)の有力武士・桂家に誕生したのが、桂太郎である。幕末の動乱期、「武」の才を持った桂が頭角を現したのが、明治政府軍と旧幕府軍が戦った戊辰戦争だった。その軍功が認められたことを皮切りに、「富国強兵」とともに歩む人生がスタートする。明治維新後の1870年、軍事制度の整備が求められる中、最先端の軍制を学ぶために桂はドイツへの留学を果たす。その経験をもとに、帰国後、明治政府の軍政改革を推進すると、伊藤博文内閣では陸軍大臣に就任。1894年にはじまる日清戦争でも活躍した。そして、1901年、内閣総理大臣となった桂は、日英同盟の締結に成功し、世界中を震撼させた日露戦争の勝利を首相として主導した。この勝利の意義は、かつて鎖国しており光のあたらなかったアジアの小国・日本が、突如世界の中で圧倒的な存在感を放ち、世界大国の仲間入りを果たしたことにある。そして日露戦争後は、韓国併合を実現し、日本の世界進出をさらに加速させた。日本が世界へと大きく打って出る時代、その先頭に立って桂は活躍したのである。

時代の要請とともに、拓殖大学の初代校長へ。

拓殖大学が生まれた直接的なきっかけは、日清戦争の勝利により台湾が日本の領土となったことにある。台湾での事業に従事するための人材養成が国家の急務であったことから、台湾協会学校(拓殖大学の前身)は設立され、桂が初代校長を務めた。「台湾を統治するためには、その土地の言語、習慣、文化の事情に精通した人材育成が必要だ。そのための学校の設置が必要だ」。世界へ拡大する日本の首相としての強い希望だった。海外で働く人材を育てる学校などほかにはなかったその時代に、世界の中で日本の置かれている立場を示しながら、世界で働くことの意義を、その中で拓大生が担うべき使命を、折をみては学生に叩き込んでいった。また、桂は、拓大の人材育成方針として「豪傑を造るに非ず」と語った。すなわち、「人の下で活躍できてはじめて、いずれ人を使える人間になれるのだ」と。政治家として、教育者として、世界における日本の未来を考えつづけた桂太郎。国際社会を舞台に活躍する人材を数多く輩出しつづける拓殖大学に、国を超えて活躍する先駆者としてのプライドは受け継がれつづけるだろう。