1891年、愛媛県に生まれた重松は旧制の松山中学を卒業し、東洋協会専門学校(現・拓殖大学)に入学。朝鮮語学科を選択し、学びを深める中で「朝鮮のために役立つ何かをしたい」という使命感を抱くようになった。卒業後、24歳で海を渡る。朝鮮総督府の官吏として土地調査局に勤務した後、金融組合の理事へ転職した。借金苦にあえぐ零細農民を救済する同組合に飛び込んだのは、貧しい農民を助けたい一心だった。1919年の3・1独立運動の際に右足を被弾し不自由となるも、その気持ちは決して揺るがない。1925年には平壌から東方40キロに位置する江東という農村へ赴任。
そこで思いついたのが、副業に「養鶏」を根付かせるアイデアだった。卵の代金を貯金させ牛を買えるシステムが貧困を救う根本的な解決策になると確信した。日本人へ敵意を向ける人も多くいた当時、何度も農民たちの説得に足を運んだり、私財を投じたりして養鶏は浸透していった。江東を豊かにした多大な功績により農民からは「聖者」と呼ばれ、顕彰碑を建てられるほど感謝された。ひとり勇んで海外へ飛び立ち、どんな困難にも屈せず志を実現し、現地の人々から敬慕される。そんな拓大出身らしい国際人の一人として、重松の名は末長く語り継がれるだろう。