TAKUDAI HISTORY~拓大ヒストリー~

1868〜1912




「鎖国」から「開国」

異国に根ざして活躍できる人材が
必要とされる時代へ。






拓殖大学。その誕生の要因は1853年、黒船来航にさかのぼる。アメリカをはじめとする強大国の圧力に屈して、日本は「鎖国」から「開国」へと舵を切り替え、明治維新へと歴史的な大転換を迎える。そして多大な犠牲を払い生まれた明治政府は「富国強兵」のスローガンを掲げ、経済の発展と軍事力の強化で近代国家への道を突き進む。やがて1894年(明治27年)、日清戦争。大国「清(中国)」を相手に勝利を収め、台湾は日本の領土となる。近代国家として初めて異民族を統治する日本、その植民地経営に世界が注目した。そこで急務となったのが台湾に赴き、地域に根ざして開発に従事するための人材育成。こうして1900年(明治33年)、拓殖大学の前身である「台湾協会学校」が設立される。

明治 MORE

  • 明治28年

    1895

    「日清戦争」終結。その勝利は、「拓殖大学」誕生へと繋がった。

    創立者・初代校長 桂太郎 台湾協会会頭として台湾協会学校を創立

    1894年(明治27年)に始まった「日清戦争」は日本側の快進撃により翌1895年、日本の勝利で終結。下関において講和条約が調印され、台湾は日本に割譲される。日本にとっては初めての海外領地経営、失敗は許されない。その重責を担ったのが台湾総督であった。桂太郎を含む歴代総督の惨たんたる経営の後、児玉源太郎総督や後藤新平民政長官の治政下、有志たちによって台湾開発を支援する民間組織「台湾協会」が発足する。そして1900年(明治33年)、協会は人材を育成するために学校を設立。それが「台湾協会学校」、後の「拓殖大学」である。

  • 明治33年

    1900

    「台湾協会学校」設立。新入生100名で授業がスタートする。

    台湾協会学校 設立認可書

    幕末から明治にかけて生まれ、現在も続く私立大学の前身は福沢諭吉が設立した慶應義塾などの私塾系、立教などのキリスト教系、そして法政などの法律専門系であった。しかし拓殖大学の前身「台湾協会学校」は官民有志で組織された協会が運営し、海外領地を経営する人材を育成する目的で設立された。当時は特異な存在で海外人材を育成する日本初の学校といえるだろう。初年度は約180名が応募して100名が入学を許可された。設立の認可から開校までわずか3か月というスピード、当時の日本で海外人材の育成が急務であったことが分かる。

  • 明治34年

    1901

    茗荷谷に校舎落成。記念してご近所を招き運動会を挙行。

    台湾協会学校校舎

    現在の東京・茗荷谷にある文京キャンパスの位置に、 1901年(明治34年)校舎と寄宿舎が落成した。台湾総督府の補助金1万円/年に拠ったものである(当時の授業料収入は年間約3,000円)。それまで他校の教室を拝借していた在校生たちは歓喜する。キャンパス内には麗澤湖が存在感を示し、やがて講堂や図書室も設けられた。在校生たちは学校の援助で中国や台湾へ海外研修にも出かけた。また、創立記念にはご近所を招き運動会を開催。その勇壮さ、奇抜さが評判になり、東京名物の一つとなった。

  • 明治36年

    1903

    第1回卒業式を挙行。卒業生45名の多くが台湾に赴任した。

    第1回 卒業写真

    1903年(明治36年)、第1回の卒業式が挙行された。来賓は、当時台湾総督府に在籍していた新渡戸稲造、「柔道の父」と呼ばれた嘉納治五郎ほか、錚々たる顔ぶれが並んだ。式では卒業生3名が、それぞれ自分の専攻した清(中国)語、台湾語、英語で演説をした。この外国語演説は拓大卒業式の名物となって15年以上も続いていくことになる。この年、卒業生45名のうちの多くが台湾総督府などに採用され、海外へと赴任していった。異国に根ざして活躍できる人材が必要とされた時代、グローバル大学としての第一歩を踏み出したのである。

  • 明治40年

    1907

    「台湾協会専門学校」から「東洋協会専門学校」へ改称。

    東洋協会専門学校 卒業生就職者分布図

    1905年(明治38年)「日露戦争」は日本の勝利で終結する。超大国ロシアに勝ったアジアの小国に世界中から感嘆の声が上がった。日本の勢力はさらに拡大。卒業生の就職先も台湾からアジアへ拡がっていく。そして1907年(明治40年) 「台湾協会専門学校」は「東洋協会専門学校」へと改称。台湾から東洋=アジアへと、卒業生たちの活躍の場は拡がっていく。そして大正、昭和と、拓大の卒業生たちは新しいアジアを創造していく担い手になっていくのである。

1912〜1926




「海外雄飛」が加速

現在へと続く、大学の精神が
形成された時代。






時代は大正へと移り、1914年(大正3年)には人類史上初の世界戦争、第一次世界大戦が勃発する。主戦場となったヨーロッパ諸国に取って代わり日本は、軍需製品、生活物資の生産、輸出に応え、産業は飛躍的に発展した。「海外人材」へのニーズも高まり、アジア圏をはじめ、南洋諸島へも赴任していく多くの拓大生たち。まさに海外雄飛が加速した時代。世相もモボ・モガの流行など、いわゆる大正デモクラシーが進んだ。と同時に未来に続く、拓殖大学の精神が形成された時代でもあった。新渡戸稲造の学監就任、今も歌い継がれる校歌の制定、そして後藤新平の学長就任。偉大な先達が、ここで学ぶ意義を、世界で生きる術を、心血を注いで学生達に教えた。そして今日まで継承されている拓殖大学の精神が形成されたのである。

大正 MORE

  • 大正3年

    1914

    今も八王子にその面影を残す恩賜記念講堂が完成。

    1912年(明治45年)「東洋協会専門学校」は海外で活躍する卒業生を多数輩出したことにより、明治天皇から恩賜金1万円を拝受した。その際、創立者の桂太郎は職員生徒一同の前で御沙汰書を読み上げた。その姿が今も文京や八王子のキャンパスに残る、桂太郎の銅像である。そして桂の死後、1914年(大正3年)に恩賜記念講堂が完成。開館式には時の総理大臣・大隈重信をはじめ、多くの名士が参列して盛大に執り行われた。その後、講堂は戦禍で損害を受け、後年取り壊されたが平成の御代、八王子国際キャンパスに復元された。

  • 大正6年

    1917

    太平洋の架け橋、新渡戸稲造、第二代学監に就任。

    この時代、二人の男が今も残る拓殖大学の精神を創り上げる。一人は1917年(大正6年)第二代学監=教育の責任者に就任した新渡戸稲造。その著書「武士道」で世界中に日本人のスピリットを知らしめ、五千円札の顔にもなった、日本を代表する国際人である。新渡戸は毎週、恩賜記念講堂で在校生に講義をした。また新渡戸の家(通称:ニトベハウス)は学校から徒歩5分の距離にあり、学生が押しかけることもあった。そこでは歴史や世界状勢などをテーマに自由討議がされた。この親密な時間の中で、学生たちが世界への眼差しを養っていったことは間違いない。

  • 大正7年

    1918

    初めて「拓殖大学」の校名に。

    1918年(大正7年)
    校名「拓殖大学」で初の新聞広告

    新渡戸稲造が学監に就任して1年後の1918年(大正7年)「東洋協会専門学校」は修業年限を四年とし、名称を「拓殖大学」に改める。そんな状況の中、新渡戸は学生たちに自立した国際人になるべきことを説き続ける。「異郷にあっても人に甘えず、しっかりした人物になれ」と、どんな時代になっても通用する生き方としての「国際化」を熱く語った。これからの日本とアジアの関係は、明治維新時のように水際で対処するには困難になり、実際にアジアに赴いて、その地を近代化して初めて「国際人」としての目的を達成できることを新渡戸は実感していたのである。

  • 大正8年

    1919

    国の生を衛る医師、後藤新平、第三代学長に就任。

    台湾総督府民政長官、南満洲鉄道総裁など、重職を歴任した、後藤新平。拓大の建学の精神を体現して、アジアの近代化に貢献してきた先駆者である。その後藤が満を持して、1919年(大正8年)第三代の学長に就任する。学監の新渡戸とタッグを組んで「国際人」の育成に取り組んだ。学生への愛着も深く、20日間ほどの満洲、朝鮮歴訪時に現地で約150人もの卒業生と面会した。後藤は、本学の学生・卒業生たちこそアジアの未来を創る若い力だと痛烈に感じたに違いない。桂太郎が創った大学のカタチに、新渡戸、後藤の二人は精神を込めた。そして本学は「海外雄飛」を標榜するに恥じない大学へと発展していく。

  • 大正8年

    1919

    「♫我が立つ前に差別なし」、校歌制定。運動会で披露される。

    作詞:宮原民平

    1919年(大正8年)創立20周年を記念して開催された運動会で、初めて校歌が披露された。校歌の作詞公募から約3年、作詞を著名な作家に依頼したこともあったが、採用されたのは本学教員の宮原民平の歌詞だった。作曲は当時、音楽界の重鎮であった永井建子。百年に渡って歌い継がれる拓殖大学校歌、誕生の瞬間である。最後の第三節にある「♪人種の色と地の境 我が立つ前に差別なし」の歌詞は、人種や地域の異なることを認めつつ、差別感を持ってはならないことを説いている。人種差別への強い憤り、それは現在も拓大らしさを最も表現した歌詞として、誇りを持って歌われている。

  • 大正11年

    1922

    「東洋協会大学」設立。日本で12番目の私立大学として生まれ変わった。

    1918年(大正7年)大学令が公布された。私立大学も帝国大学と同様、学位を授与できることになった。しかし大学に昇格するためには厳しい法的要件を満たし、かつ莫大な供託金を用意する必要があった。その金額は50万円。その資金調達に学長の後藤新平が動く。台湾総督府時代のネットワークを活かし、当時、台湾の主幹産業に成長していた製糖会社に大学の理念を説き、供託金の調達に成功する。その結果、1922年(大正11年)、日本で12番目の私立大学として「東洋協会大学」の設置が認可されたのである。

1926〜1945





「台湾」を超えて世界へ

日本の拡大と共に
世界へ雄飛する卒業生たち。






昭和に入り、日本の活動範囲はさらに世界へと拡大していく。それに呼応するかのように拓殖大学では教授陣を充実させ、学生数も増加する。さらにアジア各地に兄弟校が展開、巨大な拓大のネットワークが築かれた。卒業生の活躍範囲も、いままでの台湾や朝鮮に加えて、満洲、中国本土、南洋諸島、さらにイスラム圏へと飛躍していく。日本では1940年(昭和15年)、紀元二千六百年奉祝ムードで日本国民が熱狂した。翌1941年(昭和16年)ハワイ・パールハーバーへの奇襲を引き鉄に太平洋戦争が勃発。その戦争は、世界的にも未曾有の犠牲者を出した。やがて1945年8月15日、日本は終戦を迎える。拓殖大学も苦難の時代を迎えることになる。

昭和戦前 MORE

  • 昭和4年

    1929

    多彩な才能を持つ、永田秀次郎、第四代学長に就任。

    1932年 喜劇王チャップリンと会談

    1929年(昭和4年)後藤新平が逝去する。その際、「拓大を頼むぞ!」と手を握られ、向後を託されたのが第四代学長・永田秀次郎である。永田は東京市長や鉄道大臣などの政治家の顔を持ちながら、俳人や随筆家など、実に多彩な才能を持った人物。かの喜劇王チャップリンとも交流があり、著名人であった。そんな永田に拓大生は心服し、多忙を極める状況でも学生たちとの付き合いを心から楽しんでいた。例えば当時、拓大の相撲部は強く、大きな大会などで優勝すると自宅に相撲部を招いて大いに祝った。そんな永田も1943年(昭和18年)に逝去。戦争の足音は大きくなりつつあった。

  • 昭和7年

    1932

    新校舎竣工や総合運動場新設、支那語講習所の開設など充実化が図られる。

    1932年(昭和7年)の満洲国建国など、時代は昭和に入り日本の大陸進出は拡大し、加速化する。その頃の拓大は、海外人材の育成機関として、揺るぎないポジションを確立していた。学生も増えていき、新校舎(現:文京キャンパスA館)の竣工、総合運動場の新設など、ハード面の拡充が図られた。ソフト面では満洲国の首都・新京にある新京講習所を充実させ、現地の日本人には中国(支那)語を、現地人には日本語を教えた。大学として、異国で日本語教育をした初の事例である。そして、この頃には台湾や大連などに拓大の海外兄弟校も点在。まさしくアジアの拓殖大学だった。そして 1941年(昭和16年)太平洋戦争が勃発する。

  • 昭和20年

    1945

    終戦。空襲により大学施設は罹災。校名は改称へ。

    太平洋戦争の開戦から2年後、大学生などが軍隊へ入隊することになった。学徒出陣である。学業を中断して、戦場へ向かった。さらにアメリカ軍による東京大空襲、恩賜記念講堂など多くの建物が罹災した。そして1945年(昭和20年)8月15日、終戦の詔勅が下る。卒業生たちを海外へ雄飛させた地・文京キャンパスは既に無残な焼跡になり、未来への約束の地であった海外=中国やアジアの地も日本人の存在を相容れない異郷へと変貌する。そして占領軍=GHQ統治の下で校名改称など、拓殖大学も苦難の時代を迎えることになる。

1946〜1989





戦後復興を経て再び世界へ

総合大学を目指す、
『国際大学』として再出発。






1945年(昭和20年)の終戦後、拓殖大学は「紅陵大学」と校名を改称する。連合国軍の占領によって、大学のこれまでの軌跡が厳しい批判に直面したためで、試練の時代を迎えることになった。やがて1952年(昭和27年) 、校名は拓殖大学に復帰。1964年(昭和39年)の東京オリンピック開催など、日本の高度成長と共に大学は再生し、現在に通じる総合大学へと変貌していく。文京キャンパスの再整備、そして新たな八王子キャンパスの誕生。同時に、旧知であるアジア諸国との交流を深めて、海外からの留学生を広く受け入れた。その勢いはアジア圏を超え、イスラーム圏、スペインやブラジルなど、交流を広げていく。国際人の育成という建学の目的を堅持しつつ、これからも国際大学のパイオニアとして進化を続けていく。

昭和戦後 MORE

  • 昭和27年

    1952

    サンフランシスコ平和条約発効、日本は主権を回復。校名を拓殖大学に復帰。

    日本は、1945年(昭和21年)に降伏してからの約7年間、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の支配下に置かれた。まず拓殖大学を襲ったのは廃校の危機である。「紅陵大学」への校名変更は余儀ない対策であった。その後、学内捜索、学長人事への干渉など、 GHQの介入はあったが大きな問題は残らなかった。どんなに苦難を受けても、志は変わらない。大学の目的である「海外に活動する有為の人材の育成」は、昔も今も変わらないのである。そして1952年(昭和27年)にサンフランシスコ平和条約が発効されGHQは廃止、日本は主権を回復する。「拓殖大学」への校名復帰も実現した。

  • 昭和30年

    1955

    「矢部貞治」総長就任。そして「中曽根康弘」総長就任。大学改革が進む。

    ◀ 矢部貞治 中曽根康弘 ▶

    校名を復帰し、特色ある総合大学を目指して戦後日本を歩み始めた「拓殖大学」。そこでも二人の男が活躍し、さらに大学の価値を高めていく。まず1955年(昭和30年)総長に就任した、矢部貞治。折にふれ学生たちに「地の塩になれ」と語った。それは拓殖大学の存在価値が、アジア興隆の塩になり、戦後日本の再建の塩になることを信じたからである。そのために国際大学としての伝統を、現代に適応させるよう学風を刷新した。時は移り1967年(昭和42年)、総長に就任したのは後年、総理大臣として日米関係を改善した、中曽根康弘。恩師・矢部の意志を受け継ぎ、大学の歴史を再評価。国際主義や現地主義に象徴される建学の精神を学生たちに熱く説い続け、『民族的国際大学』という方向性を示し、アジアにも世界にも奉仕したいという気概で拓大総長を務めた。

  • 昭和52年

    1977

    八王子に新キャンパス開設。教養課程を移設。

    1971年(昭和46年)八王子キャンパス(現:八王子国際キャンパス)設置に向けた拓殖大学の長期基本構想が発表される。世界で活躍する人材を育成する国際大学としてのDNAを踏まえ、本格的な総合大学へ発展していく第一歩だった。新設学部の検討、組織制度の改革など、あらゆる角度から新キャンパス構想が検討され、カタチを成していった。そして1977年(昭和52年)、八王子にある30万坪の広大な地に新キャンパスが開設される。商学部や政経学部の教養課程を移設、そして外国語学部が新たに新設された。その後1987年(昭和62年)には工学部を新設、今に繋がる総合大学「拓殖大学」へと変貌していく。

1989〜2019




ボーダレス化する国際社会

世紀を超えて、
世界を拓いていく大学へ。






時代は平成、21世紀に突入する。日本においては少子化に伴う人口減少、経済のグローバル化、インフラ環境のIT化による社会・経済的基盤の変革。さらに地球規模での気候変動、無差別テロなど、世界的な課題を抱え、国際社会はさらにボーダレス化が加速した。そんな状況の中、1900年(明治33年)にグローバル人材の育成を目的に設立された拓殖大学の役割は世界の未来に向けて、ますます重要になっていく。2000年(平成12年)、創立百周年記念式典にご臨席いただいた天皇陛下のおことば「建学の精神は今日に生きるものであり、日本が今後ますます国際社会の平和と繁栄に貢献していくためにも、この大学から、国内においてはもとより、開発協力を始めとする様々な分野で世界を舞台に活躍する人々が数多く送り出されていくことを期待しております」を拓殖大学の全教職員は胸に刻み、世界の未来を拓く人材を育成していく。

平成 MORE

  • 平成12年

    2000

    天皇皇后両陛下御臨席のもと創立百周年記念式典を挙行。

    2000年(平成12年)拓殖大学は創立百周年を迎えた。1900年、台湾の開発と興業発展に貢献できる人材の育成を目指し、桂太郎のもとに設立。以来、海外雄飛の志と共に多くの学生が世界へと旅立ち、日本人として世界の発展に貢献してきた。記念式典には天皇皇后両陛下が御臨席された。出席者に向けられたおことばで「過去に学び、よき未来を目指して、大学をさらに発展させていくこと」を願われた。「拓殖大学」誕生の目的を再認識し、未来へと拓殖人材を育成していく決意を新たにする百年目であった。なお同年には、百周年記念事業の柱として国際開発学部(現:国際学部)が設置された。

  • 平成24年

    2012

    ロンドンオリンピックに7名の拓大出身選手が出場。拓大スポーツ、さらに開花。

    大学創立以来、心身の鍛錬として学生たちによるスポーツ活動が盛んだった。明治時代は剣道や弓術、大正に入ると相撲や陸上、野球など競技種目は広がっていく。そして1924年(大正13年)の第8回パリ・オリンピックに拓大生が出場する。競泳部出身の小野田一雄、拓大初のオリンピアンである。さらに昭和に入り、柔道部や剣道部、レスリング部やボクシング部などが拓大の名を広めるのに一役かった。そして平成のロンドン・オリンピックには7名の拓大出身選手が出場。拓大スポーツの元気な姿が日本を熱狂の渦に包んだ。また正月の風物詩「箱根駅伝」へも1933年(昭和8年)から参加、現在も積極的に挑戦を続けている。

  • 平成27年

    2015

    全学挙げての大学改革「教育ルネサンス」スタートする。

    2015年(平成27年)、大学は創立120周年にあたる2020年に向けて、本格的な大学改革への取組「教育ルネサンス グランドデザイン」を作成した。これからの社会に求められる人材として、学生一人ひとりが国際的視野を持ち、積極的にチャレンジしていくタフな人間力を身につけた拓殖人材となるように、教職員一丸となって育成していく。そのために文京や八王子のキャンパスを刷新、学生と教職員が一緒になって大学を変えていくプロジェクトも動き出した。これからも「拓殖大学」は本物の国際人を育成する、国際大学のパイオニアとしてさらに進化を続けていく。

TAKUDAI PROFILE~拓大人物図鑑~

TAKUDAI TRIVIA~拓大トリビア~